故意

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ここでは、故意について扱います。これを構成要件に全て含むか、あるいは故意を二つに分け、構成要件的故意と責任故意を認めるか、あるいは全て責任の問題とするかは見解により異なります。

この講座は、刑法 (総論)の学科に属しています。前回の講座は因果関係、次回の講座は過失です。

故意と過失[編集]

まず行為者の主観面について、以下のような区別ができます。

  1. 意図(意欲) -- これは、犯罪事実を望むものです。例えば「Aを殺したい」と思って行為する場合です。
  2. 認容 -- これは、犯罪事実を認識・予見し、それでもかまわないと思うものです。例えば、「Aが死ぬかもしれないがそれでもかまわない」と思って行為する場合です。
  3. 認識 -- これは犯罪事実を認識・予見するものです。例えば、「Aが死ぬかもしれない」と思って行為する場合です。
  4. 犯罪事実である可能性に気付かなかった場合。

そして故意が認められるためには、一般に意欲までは必要ないものの、単なる可能性の認識があるだけでは足りないと考えられています。判例の立場については理解が分かれていますが、ある判例(最判昭和23年3月16日刑集2巻3号227頁)では、「その故意が成立する為めには必ずしも買い受くべき物が贓物であることを確定的に知って居ることを必要としない。あるいは贓物であるかもしれないと思いながらしかも敢てこれを買受ける意思があれば足りるものと解すべきである。」としており、認容があれば故意の成立を認めるという認容説に立つものとも評価されています。学説上も、この認容説が多数説となっています。なお犯罪事実である蓋然性が高い場合には、それを認識しながらあえてでなく行為に出るということは考えられず、犯罪事実である蓋然性が高ければ、認容はあると考えられます。

これに対して、犯罪事実である可能性が行為者の意識や意思過程に取り込まれ、それにもかかわらず行為意思が現実化したかどうか、認識が行為に出る意思に結びついたかどうかを基準とする見解(動機説)も有力に主張されています。この見解に立てば、認容とまではいう必要はなく、犯罪事実である可能性の認識をしながら、それを否定しないで行為に出た場合には、故意があると認められます。

また、犯罪事実を確定的なものとして認識していることを確定的故意、犯罪事実を不確定的なものと認識しており故意が認められる一定のものを未必の故意といいます。上の議論は、未必の故意と過失との境界をどのように定めるかという問題です。

故意の内容[編集]

認識の対象[編集]

故意が認められるために必要となる認識とは一般的に、客観的構成要件要素すべての認識であり、主体や客体、結果や因果関係などの認識が必要となります。もっとも、認識・予見された構成要件該当事実は特定されたものでなく一定の範囲のものでもかまいません。例えば家人の誰かが死ぬだろうと考えてワインに毒を入れた場合には、実際に飲んだ人の数に応じた故意犯が成立すると考えられます。このような故意を概括的故意といいます。また因果関係の認識においては同様に、日常の経験に基づきその行為からその結果が生じるであろうという因果関係の基本的部分の認識(大筋の認識)があればよいと考えられています。もっとも因果関係については認識を不要と解する見解も主張されています。

対象物の認識についてどの程度の認識が必要と解されるかについては、判例(最決平成2年2月9日判時1341号157頁)では、台湾で日本に持ち込めない化粧品(実際には覚せい剤)を密輸入するよう迫られ、これを内蔵した腹巻を着用して入国し、その一部を都内のホテルで所持した被告人につき、「被告人は、本件物件を密輸入して所持した際、覚せい剤を含む身体に有害で違法な薬物類であるとの認識があったというのであるから、覚せい剤かもしれないし、その他の身体に有害で違法な薬物かもしれないとの認識はあったことに帰することになる。そうすると、覚せい剤輸入罪、同所持罪の故意に欠けるところはない」と判示しています。

また、認識の対象となるものには、特段の評価・判断作用の働きなしに認識することのできるものと、一定の評価・判断が必要となるものがあります。前者を記述的要素といい(例えば客体が人であることなど)、後者を規範的要素といいます(例えば文書がわいせつ性をもつこと)。これは相対的な区別ですが、特に規範的要素について、一体どのような事柄について認識があれば故意ありと認められるかが問題となります。

規範的要素の認識[編集]

このような規範的要素の認識については、学説上、意味の認識(素人仲間における並行的評価などとも呼ばれます)が必要と考えられており、その法規において着目された属性の認識が必要であるなどといわれます。なお、これはあくまで事実の認識の問題であり、これに対して行為の違法性についての認識についてはまた別の問題です。すなわち、ある事実が構成要件に該当するものではないと思っていた(例えばわいせつ物頒布罪に該当するわいせつ文書ではないと思っていた)からといって、故意がなくなるわけではありません。このような錯誤を違法性の錯誤、あるいは法律の錯誤といいます。

規範的構成要件要素の認識について、判例では、故意を否定したものもある一方で、以下のチャタレイ事件などのように、裸の事実の認識があれば足りると解しているように読めるものもありますが、学説では、やはり意味の認識が必要なのであって、一般人が性的興味を抱くような意味内容の文書であるという点につき錯誤があった場合にまで、故意が阻却されないというのは妥当でないという見解が通説となっています。

チャタレイ事件(最大判昭和32年3月13日刑集11巻3号997頁)
被告人Xは、D・H・ロレンスの著作「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳を被告人Yに依頼して日本語訳を得、その内容に性的描写の記述があることを知りながら、これを出版し売り渡したところ、猥褻文書販売罪で起訴されたという事件です。
最高裁はこの事件において、故意について、「しかし刑法175条の罪における犯意の成立については問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものでない。仮に主観的には刑法175条の猥褻文書にあたらないものと信じてある文書を販売しても、それが客観的に猥褻性を有するならば、法律の錯誤として犯意を阻却しないものといわなければならない。わいせつ性に関し完全な認識があったか、未必の認識があったのにとどまっていたか、または全く認識がなかったかは刑法38条3項但書の情状の問題に過ぎず、犯意の成立には関係がない。」と判示しました。

事実の錯誤と違法性の錯誤[編集]

上記のように、一般に、違法性の錯誤(法律の錯誤)は故意の成否には関わりません。そして、事実の錯誤と違法性の錯誤の区別については、違法性の前提となる客観的構成要件該当事実の錯誤が事実の錯誤であり、それが違法性を有するか否かについての錯誤が違法性の錯誤であるなどといわれますが、どこまでが事実の錯誤で、どこからが違法性の錯誤であるかは必ずしも明らかではありません。

違法性の錯誤[編集]

違法性の錯誤は、以下の二つに分類されます。

法の不知
法の不知とは、そのような行為を禁止する法規の存在を知らなかった場合です。
あてはめの錯誤(包摂の錯誤)
あてはめの錯誤は、法規自体は知っているものの、これには該当しないと、解釈を誤ったをしたものです。

規範的要素が問題となる場合や、事実が法律と密接に関連している場合には、違法性の錯誤と事実の錯誤との区別が問題となります。

また、違法性の錯誤がある場合に、それが相当な理由がある場合、すなわち違法性の意識の可能性を欠く場合にどのように考えるかについて、また、違法性阻却事由の錯誤についてどのように考えるかも見解が分かれています。これらについて詳しくは後の責任の講座や誤想防衛の講座などを参照してください。

判例[編集]

違法性の錯誤と事実の錯誤の区別の問題に関する判例としては、たぬき・むじな事件(大判大正14年6月9日刑集4巻378頁)があります。この事件では、狩猟法がたぬきの捕獲を禁止していたところ、被告人はたぬきを、それはむじなであってたぬきとは別個の動物であると認識して捕獲したというものです。ここで大審院は、これを事実の錯誤であって故意は認められないとしました。これに対し、むささび・もま事件(大判大正13年4月25日刑集3巻364頁)では、被告人は猟が禁じられているむささびを、それはもまであると認識し、むささびであることを知らないで捕獲したというものであり、ここでは大審院は単なる違法性の錯誤として故意の阻却を認めませんでした。

以上の両判決については、これを矛盾した判決であると評価する見解がある一方で、たぬきとむじなについてはこれを別個のものと捉らえるのが当時の社会通念上の認識であり、こちらの被告人には社会的意味の認識としてむじなという認識が認められ、一方むささびをもまというのは一地方の俗称であってこれが別個のものであるという社会通念はなく、社会通念上、もまとむささびは同一のものであるから、こちらの被告人には社会的意味の認識としてはむささびの認識が認められるため、結論が異なったのであり、矛盾したものではないとの評価もなされています。

また最高裁の判例では、以下のものがあります。

最判昭和26年8月17日刑集5巻9号1789頁
本件は、被告人が、警察規則等を誤解し、鑑札のついていない犬は他人の飼い犬であっても無主犬とみなされると信じて、これを撲殺したところ、器物損壊罪などで起訴されたという事案です。
最高裁は、「同規則においても私人が擅に前記無主犬と看做される犬を撲殺することを容認していたものではないが被告人の前記供述によれば同人は右警察規則等を誤解した結果鑑札をつけていない犬はたとい他人の飼犬であっても直ちに無主犬と看做されるものと誤信していたというのであるから、本件は被告人において右錯誤の結果判示の犬が他人所有に属する事実について認識を欠いていたものと認むべき場合であったかもしれない。されば原判決が被告人の判示の犬が他人の飼犬であることは判っていた旨の供述を持って直ちに被告人は判示の犬が他人の所有に属することを認識しており本件について犯意があったものと断定したことは結局刑法38条1項の解釈適用を誤った結果犯意を認定するについて審理不尽の違法があるものとはいわざるを得ない。」として、被告人を有罪とした原審を破棄差戻ししました。
最判平成元年7月18日刑集43巻7号752頁
本件は、被告人が、被告人の父が営業許可を受けて特殊公衆浴場業を営んでいたところ、その健康が悪化したことから、被告人は県会議員Aに被告会社甲の営業許可取得につき協力を依頼し、その働きかけにより県の衛生部公衆衛生課長補佐らが動き、この教示に従って、被告人は名義人を父から甲に変更する許可申請事項変更届を提出し、それが県知事に受理された上で営業を続けたところ、公衆浴場法の無許可営業に当たるとして被告人及び甲が起訴されたという事案です。原判決は、本件変更届の提出に至った経緯や許可の性質などを検討した上で、本件変更届は申請者の同一性を変更するもので法的に不可能であって、本件変更届の受理等は無効であり、また被告人は本件変更届の無効であることの認識を有しており、営業が違法である事の認識の可能性が無かったとはいえないとして被告人、被告会社甲の有罪を認めました。
最高裁は、被告人が変更届受理によって被告会社甲に対する営業許可があったとの認識のもとに本件浴場の経営を担当していたことは明らかというべきであるとし、本件浴場の営業については、被告人には無許可営業の故意が認められないことになり、被告人及び甲につき、公衆浴場法上の無許可営業罪は成立しない旨を判示しました。

(参照 w:たぬき・むじな事件

事実の錯誤[編集]

分類[編集]

事実の錯誤は、まず、具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤に分けられます。

具体的事実の錯誤
具体的事実の錯誤とは、同一構成要件内の具体的な事実において錯誤がある場合であり、例えばAを殺すつもりで銃を撃ったところBに当たり、Bが死亡したような場合のことです。
抽象的事実の錯誤
抽象的事実の錯誤とは、異なった構成要件間の錯誤であり、例えばAを殺すつもりで銃を撃ったところ後ろの壷に当たって壷が破壊されたような場合のことです。

また、事実の錯誤は、客体の錯誤と方法の錯誤(打撃の錯誤)、因果関係の錯誤に区別されます。

客体の錯誤
客体の錯誤は、例えばAと思って後ろから拳銃で撃ったところ実はBであったというような人違いの場合などであり、行為は認識通りの客体に向けられたものの、その客体の性質が認識と異なっている場合のことです。
方法の錯誤(打撃の錯誤)
方法の錯誤とは、Aを狙って拳銃を撃ったところBに当たってBを死亡させたというような場合であり、行為自体が認識した内容と異なる客体に向けられる場合のことです。
因果関係の錯誤
因果関係の錯誤とは、Aを溺死させようと思って崖から海に突き落としたところ、途中の岩に頭を打ちつけて死亡したといった場合であり、認識どおりの客体に侵害が生じたが、結果にいたる因果経過が認識・予見していたものと異なる場合のことです。

符合[編集]

以上のような事実の錯誤につき、どの程度の一致が見られれば、発生した故意について故意が認められるかが問題となります。そして、故意の成立を認めるべき程度に認識と結果とが一致することを符号といいます。現在では、およそ何らかの構成要件に該当するという事実だけが重要であって、それが認められれば結果についての故意が認められるという抽象的符合説も、またあらゆる具体的事実が重要だとする純粋な具体的符合説も支持されておらず、構成要件を基準に考える、法定的符合説(抽象的法定符合説)と具体的符合説(具体的法定符合説)との見解の対立があります。

法定的符合説
法定的符合説(抽象的法定符合説)は、故意の本質は構成要件要素に該当する事実について認識し、それを実現する意思にあるのであって、法定の構成要件で類型化された事実の認識が認められるのであれば、発生した犯罪事実に故意を認めることができるという見解です。構成要件該当事実に該当する事実の具体性は捨象されることとなります。この見解が現在の判例・多数説と考えられています。そして法定的符合説は、数故意犯説と一故意犯説に分かれます。
具体的符合説
具体的符合説(具体的法定符合説)は、法定的符合説と同様に構成要件該当事実を構成要件要素のレベルで捉えるものの、構成要件該当性は法益主体ごとに判断されるのであって法益主体の相違については無視し得ないと考え、法益主体についての具体性は捨象することができないと考えるものです。

具体的事実の錯誤[編集]

以上を前提とすると、具体的事実の錯誤については、以下のように判断されます。

客体の錯誤[編集]

法定的符合説からすると、例えば殺人罪においては、構成要件的にはおよそ「人」であればよいのであって被害者がAかBかは重要ではないため、Aと思ったがBであった場合、B殺人についての故意が認められる。

具体的符合説からも、客体の錯誤においては例えば殺人罪の場合、具体的な法益主体である「その人」を殺害する意思があり、実際に「その人」が殺害されているのであるから、「その人」であるBに対しての故意を認めることができ、B殺人についての故意が認められると主張されます。

方法の錯誤[編集]

法定的符合説からすると、やはり人を殺そうとして実際に人を殺した以上、Aを狙ったがBに当たった場合には、B殺人についての故意が認められるといいます。

具体的符合説からすると、法益主体については抽象化を認めないため、B殺人についての故意は認められません。なお、具体的符合説に立ったとしても、法益主体が同一であればその範囲内においては方法の錯誤は故意を阻却しないため、例えばAの腕を狙って石を投げたところAの足にあたって怪我をさせたような場合には、足の傷害について故意が認められます。

ここで、具体的符合説の見解からの法定的符合説に対する批判として、法定的符合説も、法益主体ごとに構成要件該当性を判断しており、例えばAとBとを殺害した場合、A殺人罪とB殺人罪とが成立すると考えるのですが、このように構成要件該当性の判断と符合の判断とが異なることには疑問があるといわれており、また上の例で、Aを狙って拳銃を撃った場合にAを貫通して、Bにも当たってA、B両方を殺害した場合、一人を殺す意思しかないにもかかわらず故意の殺人罪が二罪成立するのは妥当でないとの批判もなされています。

故意の個数について、判例は複数の故意犯の成立を認めており、このような見解は数故意犯説と呼ばれています。数故意犯説の立場からは、一個の行為であっても複数の犯罪の成立を認めるのが観念的競合であり、一個の故意であってもその故意が複数の犯罪に共通に評価されることは刑法が当然予定するものであり、また観念的競合として処理されるのであるから格別の不都合は生じないと主張されます。これに対して、法定的符合説の中には、1個の故意犯のみを肯定する一故意犯説を主張する見解も主張されますが、一故意犯説については、どちらに故意を認めるのかに困難な問題が生じ、無理があるとの批判もなされています。

因果関係の錯誤[編集]

因果関係の認識は、前記のように大筋の認識で足りるものと考えられますが、因果関係の錯誤においては、法定的符号説からも具体的符合説からも、構成要件的な符合が認められればよいのであって故意の認識対象として具体的な因果経過は重要なものではなく、錯誤があったとしても故意を阻却するものではないと考えられます。

また、そもそも故意の成立要件として因果関係についての認識を不要と解する見解に立てば、当然因果関係の錯誤は故意の成否に影響するものではありません。

これに関連する問題としては、ウェーバーの概括的故意の問題と、その逆の場合である、早すぎた構成要件の実現の問題があります。

ウェーバーの概括的故意
ウェーバーの概括的故意とは、行為者は第一行為により結果を発生させたと考えたが、実際には第二行為によって結果が発生したというものであり、判例(大判大正12年4月30日刑集2巻378頁)では、殺人の意思で被害者の首を絞め、動かなくなったため死亡したと思って、離れた海岸に運び放置したところ、実際にはまだ死んでおらず被害者は瑣末を吸引し、これにより死亡したという事案において、第一行為と結果との間に因果関係が存在し、第二行為の介在はそれを遮断するものでないとして殺人既遂を認めたものがあります。この問題については、因果関係の錯誤として扱うのが通説的見解となっています。
早すぎた構成要件の実現
早すぎた構成要件の実現とは、上とは逆に、第二行為によって結果を生じさせる予定であったが、第一行為で結果が発生したというものであり、判例(最決平成16年3月22日刑集58巻3号187頁)では、クロロホルムを吸引させて失神させた上で海中に転落させて溺死させる計画であったが、実際にはクロロホルムの吸引により死亡していた可能性があったという事案において、「第1行為は第2行為を確実かつ容易に行うために必要不可欠なものであったといえること、第1行為に成功した場合、それ以降の殺害計画を遂行する上で障害となるような特段の事情が存しなかったと認められることや、第1行為と第2行為との間の時間的場所的近接性などに照らすと、第1行為は第2行為に密接な行為であり、実行犯3名が第1行為を開始した時点で既に殺人に至る客観的な危険性が明らかに認められるから、その時点において殺人罪の実行の着手があったものと解するのが相当である。また、実行犯3名は、クロロホルムを吸引させて被害者を失神させた上自動車ごと海中に転落させるという一連の殺人行為に着手して、その目的を遂げたのであるから、たとえ、実行犯3名の認識と異なり、第2行為の前の時点で被害者が第1行為により死亡していたとしても、殺人の故意に欠けるところはなく、実行犯3名については殺人既遂の共同正犯が成立するものと認められる。」と判示しました。

(参照 w:因果関係の錯誤w:ウェーバーの概括故意

抽象的事実の錯誤[編集]

抽象的事実の錯誤の場合、判例及び通説は、行為者の認識・予見と、実際に生じた事実の該当する構成要件の重なり合いを問題とし、このような重なり合いが肯定できる場合には、重なり合う限度で故意を肯定しています。

そして、重なり合うか否かは、一方の構成要件が他方を加重減軽する関係にあって、一方が他方を形式的に包摂するという場合だけでなく、実質的な重なり合いがある場合においても重なり合いが認められています。実質的な重なり合いが認められるためには、まず保護法益の重なり合いが認められることが必要であり、またその上で構成要件的行為の共通性なども考慮して判断されることとなります。

重なり合いが認められる場合、判例によれば、行為者の認識・予見した事実と客観的に実現された事実が完全に重なっている場合には実現された構成要件にかかる故意が認められてその故意犯が成立し、完全に重なり合っておらず、軽い罪の限度で重なり合っている場合には、軽い罪の故意が認められて軽い罪の故意犯が成立することとなります。

(参照 w:故意w:錯誤