Topic:形態論/コラム/ら抜き言葉について
見れる、食べれる、来れる、って言い方は、時々非難される、ら抜き言葉、ってやつですね。本来は可能助動詞の、られる、を使っているはずだから、見られる、食べられる、来られる、に、なります。
最近はいろいろな意見が出てきましたが、一時期は、言葉に敏感で理解のある人はら抜き言葉を非難するっていう固定されたイメージがあって、2013年の映画、舟を編む、にもそういうシーンがありましたよね。
ここでら抜き言葉を語るときには、可能動詞について語る必要がどうしてもあって、この可能動詞というのは、五段活用の動詞を下一段活用の動詞に変化させて、可能の意味を表現した物なんです。
具体例を出すと、書ける、打てる、会える、などで、これは助動詞のついていない、単独の動詞です。
ところで私の手元にある旺文社国語辞典第十版(2011)には、可能動詞の項目に、このようなことが書かれていますよ。
『【参考】「来る」や「着る」「投げる」など、五段活用以外の動詞にも広がりつつある。』
これを具体的に書くと、来れる、着れる、投げれる、なんですが、これは実は、ら抜き言葉そのものなんですよね。
ここでちょっと可能動詞の作り方について考えたいんですが、私見ですが、五段動詞の仮定形に、語尾の、る、を付ければいいですよね。
書け・る、打て・る。
これを上一段、下一段の動詞に応用すると、同じ作り方ができて、
着れ・る、投げれ・る。
カ変は
(来)くれ・る
になってしまいますが、音便して、(来)これる、になったと言い張ることはできると思います。
つまり、ら抜き言葉を非難する、しないという事は、五段活用動詞以外の可能動詞化を認めるか認めないか、という事に還元できてしまう様に思われます。
私自身は、基本的には避ける、ただし場合によっては使う、って立場ですね。