物理学とは

提供:ウィキバーシティ

本講座では、そもそも物理学というものが何かよく知らない方のために、その魅力と本質を少しの歴史も交えながら大雑把に紹介する。

物理学とは何か?[編集]

この問いに答えるにはかなりの勇気が必要である。

辞書的に述べるならば、「あらゆる体の背後にある論を解明する問」あたりが妥当であろう。あるいは「体がそこに存在している由を解明する問」と言ってもいいかもしれない。この言い方に表れるように、物理学の対象は身の回りのあらゆる「物」すべてである。

例えば、なぜリンゴは地面に向かって"落ちる"のだろうか[注 1]

このチンケな問いに対し、いろいろな回答が予想される。ある者は「リンゴは空からの不思議な力で下に向かって押し付けられている」と言い、またある者は「神がリンゴは地面に落ちよと命じた」と言う。どちらも一蹴するには説得力がある。

もし我々がこれらの主張を科学的態度で訴えるならば、前者の説には不思議な力が存在することを証明すべきであるし、後者の説には神の存在さえ証明しなければならない。

結局のところ、世の中の本当のことは誰にも分からないのである

しかし幸いなことに、歴史上の物理学者と呼ばれる偉人たちは、ある一つの説を科学的に主張することに成功した。その説とは、「リンゴは地球に引っ張られている」である。これを現代まで引き継いだものが物理学[注 2]である。

この裏を返せば、もし運動方程式の「反例」を見つけることができたのならば、我々が連綿と紡いできたあらゆる物理学体系、あるいは私が執筆している本ページやSchool:物理学の内容全部は、いとも簡単に崩れ去ることとなる。換言すれば、物理学とは砂上の楼閣である。

しかし、このようなことを安易に言ってしまうのは、誤解を生じる恐れが十分にある。それゆえに勇気の要る回答なのである。

なぜ人は物理学するのか[編集]

物理学は先ほども述べたように物に対して探求する学問であるが、ではそもそもなぜ人は物理学を開拓しようとするのか。

大昔の人類、とりわけ古代ギリシアではこの地上世界(現実)における現象論を哲学的に考察することに興味があった。また、この頃には学問に明確な区分が存在せず、過去の偉人たちは物理学・天文学・神学など複合的に考察し、彼らなりの答えを"論理的"に導くことに関心を寄せていた。

物理学に関する当時の一例を紹介しよう。

例えば「なぜ物は落ちるのだろうか?」という問いが当時もあった。今日ではガリレオ以下古典物理学的観点から、「重力」の存在が信じられているが、当時はもちろんそうではなかった。

アリストテレスはこの問いに対し、現象を観察することにより、「重いものは下に落ち、軽いものはゆっくり落ちる(あるいは煙のようなものは上に昇りさえする)」と考えた。さらにそこから発展して、「一番軽いものは天上を自由に移動できる」という逆説的な考え方から、太陽や星々は地球の周りをぐるぐると回っているのだと結論付けた(天動説)。

現代人たる我々こそ、この理論は一蹴できたものだが、私からするとこれは非常に忠実に物理学していると言える。


普段の我々はどれほどこの世界を真剣に見ているだろうか?


日々の生活に追われる我々では、この問いに対し、あいまいな態度で笑う他ないのではなかろうか。無論、いくつかの例外もいるが。

人が世界を見るとき、その正当性はどうあれ、理論立てて、あるいは秩序立てて考えることは非常に重要である。その正当性を確かめるのは実験学の領域であり、さしたる障害ではない。問題は、まず「この世が何らかの理を持って為されている」と考えられるか否かなのである。この点においてアリストテレスなどは非常に物理学をしていたと言えるだろう。

人が物理学するということは、世界を真剣に"視"ようとすることである。

現代人には幸いなことに、過去の偉人たちによって体系化された緻密な物理学がある。もはやこの世は暗闇ではないのだ。

諸君もこれまで漠然と見ていたこの世界を、今一度物理学という名のカンテラで照らしながら、注意深く"視"てみるとよい。

物理学の積み木[編集]

今日の物理学の代表的な分野がどの様にして発展してきたかを簡易的な模式図で表したもの。二次元で表現した都合上、実態に即しないことも多い。

%執筆途中です(Yamaextra)

物理学のこれから[編集]

注釈[編集]

  1. 有名なニュートンの万有引力発見の逸話である(どうやら創作らしい)。
  2. 正確に言えば、これが古典力学である。