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神の存在証明

提供:ウィキバーシティ

大学生の時、教養科目の人文科学の課程で哲学を受講した。

その時の課題がデカルトで、教科書として購入した中央公論社の書籍は今も持っている、いま手元にあるよ。

「我思う故に我在り」の議論は現在の言葉で言えば、クオリアと意識のハード・プロブレムにかかわる問題になると私は当時思ったし、自然科学だけでは物事は説明できないのだと、ますます感じるようになった。

そしてデカルトが神の存在証明をしていると聞いて、いやー哲学ってすごいね、そんなことまでしてるの?なんて思った、けど、このデカルトの議論については私自身はそんな詳細に読んでないし検討もしていない。

今後興味を持って読んだり接することもあると思うけど、しかしそもそも論として、神様、神っていったい何のことを言っているのだろう?神様っていったいどういう概念、存在なの?

私が思うにそれは、我々の世界、存在のメタ構造、メタ状況なのだと思う。

その状況に我々と同様の人格を付与してイメージした時、神、神様という言葉が発せられるのではないだろうか?

そこでですねー、我思うに、我々のこの世界、この状況が、広大な万物に置いて最上位構造、ターミナル、天井だという事ができるだろうか?

できないと思う。

ならばメタ構造、状況は存在するだろう。

ならば神様は存在する。

…これが私なりの神の存在証明ですね…

ところで私は昔から、耳、聴覚がいいほうだと自分では思っていて、一方でそのための悩み、困ったことも結構感じていました。

最近ではその悩みを解消、緩和するために、ノイズキャンセリングのステレオイヤホンを耳に着けて外出することが多いのですが、聴くのは普通は好きな音楽、しかし他にいい音源がないかなーと思っているうちにお経のCD を聞いてみることにしたんですよ。

いま特に上げるとしたら観音経と般若心経。

そこで法華経の観音経を聞いているときに気づいたんですが、何かこのお経を聞いていると、日頃の現実日常生活上の困った事態、困った状況が、緩和、解決されることが多いんです。

これって…やはり観音菩薩の功徳ではないかと…。

まあ私はほかの場所でも書いているように、日常では宗教的な発想を廃絶して生きているんですが、しかし一方生きて生活していると、こういう超越的な不可思議な事象に出くわすことも、実際にはしょっちゅうなんですよね。

ですから観音経のCD を聞いていると、現実上の困った事態が解決し、観世音菩薩の功徳が現れるのはなぜか?

それは、観音菩薩をイメージすることが、現実の我々のメタ状況に、実際にアクセスすることになるからだと思うわけです。