責任

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ここでは、責任と責任阻却事由について扱います。なお、見解によっては故意・過失も責任の段階で扱われることとなりますが、これらについてはそれぞれ故意過失を参照してください。

この講座は、刑法 (総論)に属しています。前回は被害者の同意、次回は誤想防衛です。

責任と責任阻却事由[編集]

責任は、その行為をしたことについて行為者を非難しうること、すなわち非難可能性を意味するものです。

ここで故意や過失について、これは違法要素である、あるいは違法要素でもあるとし、構成要件を違法類型や違法責任類型であると考えた場合、故意や過失は構成要件に含まれることとなりますが、構成要件は客観的なものであって違法類型であり、故意・過失は責任要素であるから構成要件に含まれないと考えた場合、故意・過失はこの責任段階で検討されることとなります。さしあたりこの学科では、判例と同様、故意・過失は構成要件要素として扱うため責任では故意・過失は扱いませんが、自らどの見解に立つかにより変わりますので注意して下さい。

また、(故意・過失があれば)責任は一般にあると考えられており、責任において問題となるのは、責任阻却事由の有無となります。構成要件が違法責任類型であると考える見解からは、構成要件に該当することで原則として責任が推定され、また構成要件を違法類型とする見解からも、刑法は一般に人に責任が認められることを前提としているなどといわれます。

そして、責任阻却事由として、一般的に責任能力と期待可能性があると考えられています。

責任の意義・本質[編集]

責任主義[編集]

責任に関する原則として、責任主義があります。責任主義とは、行為者の行為について、その行為者を非難できる場合にのみその行為者に責任(刑罰)を認めるという原則です。責任主義は結果の惹起をした以上責任を負わせ刑罰を科すという結果主義・客観的責任の考え方や、連座・縁座の制度などの一定の団体に属することを理由とする団体責任の考え方を否定し、刑罰が科されるのは主観的責任がある場合だけであり、個人はその自ら犯した犯罪についてのみ責任を負うという個人責任の考え方に立つものです。これについて、「責任なければ刑罰なし」などといわれることがあります。

責任の本質[編集]

責任の本質について、学説ではさまざまな見解が主張されてきました。

行為責任論
行為責任論(意思責任論)は、自由意志を有することを前提として、個々の犯罪行為に向けられた行為者の意思決定を責任の基礎とし、その行為・結果について非難されるというものです。
道義的責任論
道義的責任論は、上の行為責任について、これを道義的な非難であると捉えるものです。
社会的責任論
社会的責任論は、人の行為はその生まれ持った素質と環境によって決定されているという決定論の立場から、社会にとって危険なものは社会を防衛するために刑罰を受ける責任を負うというものです。これは、意思の自由を否定し、行為者の危険性について責任を認める見解であって、現在では支持されていません。
人格責任論
人格責任論は、行為の際の主体的な意思活動によって形成された人格に対する責任と、その意思活動に影響を与えている潜在的な人格の形成に対する責任(人格形成責任)との両者を基礎とするものです。

責任判断の要素[編集]

かつては、責任能力と故意・過失という心理的事実があれば責任が認められるという心理的責任論が主張されました。しかしこれに対しては、このような心理的事実から非難可能性を直ちに導くことについて説明できていないなどといった批判がなされ、現在では支持されていません。

規範的責任論は、法の期待に反して違法行為を行った場合に初めて法の違反が問題となり、行為者に責任が認められるためには、責任能力と故意・過失という心理的要素の他に、行為者が行為当時において適法行為を行うことが期待可能であったという規範的要素が存在する必要があるという見解です。この見解は様々な立場の学説から受け入れられ、通説となっています。

(参照 w:責任

責任能力[編集]

責任能力の内容[編集]

責任能力とは、行為者に責任非難を認めるための人格的能力であり、その内容としては、行為の違法性を弁識する能力(弁識能力)と自己の行為を制御する能力(制御能力)があります。

このような責任能力について、これも責任を問うための個々の犯罪行為についての一責任要素であるという見解と、責任能力は個々の行為についての能力ではなく、その前提となる一般的な人格的能力であるという見解があります。

個々の犯罪行為を離れた一般的な人格的能力であるというと、ある種の犯罪についてのみ責任能力を認め、他の種類の犯罪には責任能力を否定するという、部分的責任能力・一部責任能力の観念は認め難いこととなります。一方、個々の犯罪行為についての責任要素の一つであるということを強調すると、責任能力の判断も期待可能性の判断と異ならないことともなります。

刑法では、責任能力による責任阻却・減軽事由として、心神喪失者・心神耗弱者([[b:刑法第39条|39条])と、刑事未成年(41条)を定めています。これにより、心神喪失者・刑事未成年者については刑が免除され、心神耗弱者については刑が減軽されることとなります。

心神喪失・心神耗弱[編集]

心神喪失・心神耗弱の判断においては、一般に生物学的方法(行為者の精神の障害、例えば精神病や意識障害などによる判断)、と心理学的方法(弁識能力と制御能力を考慮し、行為者の行為時に自由な意思決定ができなかったかどうかによる判断)とを併用する、混合的方法によって判断するものと考えられています。

精神の障害については、精神病のほか病的・重篤な意識障害、例えば酩酊などの場合にも認められます。一方人格障害、すなわち性格の異常のため社会に適応する能力を欠く者については、精神保健福祉法5条では精神障害者とされているものの、刑法の生物学的方法による判断においては、性格の偏りは誰にでも認められるものであって弁識能力や制御能力を欠くわけでもなく、それ自体としては精神の障害として含ませるべきでないと考えられます。

心神喪失者とは、精神の障害によって弁識能力または制御能力が全くない者を言い、心神耗弱者は弁識能力または制御能力が著しく低い者を言います。

一部責任能力[編集]

部分的責任能力(一部責任能力)とは、ある行為者の人格の評価において、ある方面については責任能力を認め、ある方面については責任能力を否定するというものです。例えば、詐欺罪については責任能力がないが窃盗や障害においては責任能力を認めるということを許容するかどうかが問題となります。

責任能力も責任要素の一つと考えると、ここの犯罪ごとに責任能力を判断することも認められ、この部分的責任能力が肯定されることとなりますが、一般的人格的能力と解する見解からは、このような部分的責任能力は否定されると考えられます。

刑事未成年者[編集]

14歳に満たないものは責任無能力者とされており(41条)、年齢の算定は年齢計算に関する法律に従って、出生の日から起算し民法143条の準用による暦による計算がなされます。

また、20歳未満の者については少年法が特則として定められています。

(参照 w:責任能力

原因において自由な行為[編集]

同時存在の原則[編集]

原則として、責任能力は犯罪行為時に存在しなければなりません。これを同時存在の原則といいます。しかし、自ら責任能力が低下した状態を招いた場合、例えば酩酊すると大暴れることがわかっている者が、これを利用してある者を殺してやろうと考えて大量に飲酒し、実際に酩酊してその者を殴り殺した場合、責任無能力・限定責任能力にあったとして39条の適用をしなければならないものかが問題とされ、このような場合に完全な責任能力を認めるものとして、原因において自由な行為 (actio libera in causa) の理論が考えられました。

故意犯の場合[編集]

まず、故意犯の場合にどのように考えられるかについて、見解は様々に分かれています。

39条適用説
これは、原因において自由な行為を認めず、あくまで責任能力の低下があった以上、39条を適用するという見解です。しかしこれは妥当でないと批判されています。
原因行為説
原因行為説は、原因行為(上の例で言うと飲酒行為)が処罰の対象であって、この行為時に完全な責任能力がある以上39条は適用されないというものです。この中でも後記のように様々な見解が主張されています。
結果行為説
結果行為説は、結果行為(上の例で言うと殺人行為)が処罰対象であり、実行行為はあくまで結果行為であるが、原因行為の時点では責任能力があり、原因行為時の意思決定が結果行為において実現しているという、意思の連続性が認められる場合には、結果行為についても例外的に責任非難が可能であるという見解であり、これはまさに同時存在の原則の例外を正面から認めるものです。これに対しては、責任主義に反する、また結果行為時に故意が認められるのなら原因行為のときには故意がなくともなお故意犯が肯定され得るのでないかという批判がなされています。

原因行為説[編集]

原因行為説の中でも以下のように見解は分かれています。

間接正犯類似説
間接正犯類似説は、原因において自由な行為について、これを間接正犯に類似した、責任能力のない自分自身を利用した行為であると捉える見解です。これに対しては、飲酒行為を実行行為と捉えると、飲酒した後そのまま寝てしまったような場合にまで未遂の成立を認めることともなるがそれは妥当でないということ、逆に飲酒行為では実行行為性は認められないと考えると、故意の作為犯において原因において自由な行為がほとんど認められないこととなること、また限定責任能力の場合には責任能力が残されている以上間接正犯類似とは言い難く、原因において自由な行為が認められないなどの点から批判されます。
正犯行為説
正犯行為説は、原因行為(飲酒行為)を正犯行為(実行行為)、結果行為(殺人行為)の着手時を未遂犯成立時(実行の着手時)とすることを認め、正犯行為の時点で責任能力が認められ、その時点の故意が結果行為によって実現されたという意思の連続性と相当因果関係が認められるのであれば、この正犯行為を処罰してよいという見解です。これは処罰の対象となる行為と未遂犯成立時の基準となる行為との分離を認める見解です。

またこの他、実行行為は原因行為であるが、実行行為性は結果行為が行われることで初めて、遡及して 認められるようになり、故意の連続性と相当因果関係、二重の故意(原因行為時に結果行為をする故意と、責任能力を低下させた状態で結果行為をする故意)が認められればよいとの見解なども主張されています。

どのような場合に未遂が認められるかという、実行行為と未遂の成立時期に関しては未遂の講座も参照して下さい。

裁判例[編集]

最決昭和43年2月27日刑集22巻2号67頁
本件は、被告人が飲酒後、酒酔い運転をしたが、運転時には酩酊状態にあって心神耗弱の状態にあったという事案です。これにつき最高裁は、「なお、本件のように、酒酔い運転の行為当時に飲酒酩酊により心身耗弱の状態にあったとしても、飲酒の際酒酔い運転の意思が認められる場合には、刑法39条2項を適用して刑の減軽をすべきではないと解するのが相当である。」と判示しました。

実行中の責任能力の低下[編集]

実行行為を継続中に責任能力が減少した場合、例えば殺人の実行行為として人を何度か刺している最中に心神耗弱に陥ったような場合に、やはり39条を適用すべき、あるいは低下後の行為には原因において自由な行為の理論が適用されるとの見解もありますが、責任能力のある状態で実行行為を開始した以上、それ以後の実行行為が、同一の機会に同一の意思の発動に出たものと評価される限り、39条の適用はなく、責任が肯定されるとの見解も多く主張されています。

また裁判例においても、このような場合には39条の適用は否定されています。

過失犯[編集]

過失犯については、過失行為は結果行為より遡って認めることができ、結果はその過失行為と相当因果関係があるのであれば過失犯の成立を認めることができるため、原因において自由な行為は問題とならないといえます。

(参照 w:原因において自由な行為

違法性の意識の可能性[編集]

違法性の意識[編集]

まず、違法性の意識とは、自らの行為が違法であることの意識であり、このような違法性の意識についてどのように考えるかは見解が分かれています。まず、違法性の意識の内容としてどのようなものと考えるかについて、以下の見解があります。

  • 前法的規範違反、すなわち社会倫理・道徳に反することの意識という見解。これは後記の厳格故意説から、法律上許されると思っただけで故意犯が否定されるという事態を避けるため主張されるものです。
  • 法律上許されないものであることの意識という見解。
  • 刑罰法規違反の意識であるという見解。
  • 可罰的刑法違反の意識であるという見解。

可罰的刑法違反の意識まで求め、法定刑も認識対象として含む見解に立つと、法定刑の錯誤がある場合(もっと軽い刑だと思っていた場合)には軽い刑しか科せないことともなり得ますが、このような見解については、過多の要求であって、軽い犯罪行為を行う自由を保障する必要はないなどと批判されます。

故意説と責任説[編集]

違法性の意識に関して、これを不要と解する違法性の意識不要説と、これも故意の要素であると解する故意説、違法性の意識の可能性が故意・過失に共通した故意とは別個の責任要素であるという責任説があります。

違法性の意識不要説
判例は、伝統的に違法性の意識不要説に立つものと考えられてきました(最判昭和25年11月28日刑集4巻12号2463頁など)。しかし下級審においては、違法性の意識の可能性がない場合に故意を阻却するとしたものもあり、また最高裁においてもこれについて検討した原判決の判断を是認したものがあります(最決昭和62年7月16日刑集41巻5号237頁)。学説からは、違法性の意識の可能性すらないような場合には非難できるものではないとして、これを批判する見解が通説となっています。
厳格故意説
厳格故意説は、違法性の意識を故意の要素と考え、これがない場合には故意を阻却するという見解です。違法性の意識があるにもかかわらず行為に出たことで、過失犯とは異なった故意による責任非難が可能となるというものですが、これに対しては法律を知らなかったという弁解を認めるため知っていたという立証が必要となるがそれは困難なこと、38条3項が定められた理由がなくなること、あるいは違法性の意識を前法的規範違反と解すると、なぜそのような意識から法的責任が問えるのか問題となることなどにおいて批判がなされています。
制限故意説
制限故意説は、違法性の意識の可能性を故意の要素と考え、これがない場合に故意を阻却するという見解です。これに対しては、可能性というものをあるかないかという故意の要素として取り入れることができるのか、またこの違法性の意識の可能性がない場合に、過失犯を認めうるのかが問題となります。

以上のように、現在では違法性の意識不要説・故意説はそれぞれ批判され、責任主義の要請から、違法性の意識の可能性を故意・過失に共通した責任要素であり、これを欠く場合、38条3項の延長線上に、超法規的に責任阻却が認められると解する責任説が多数説となっています。

責任説[編集]

責任説は、違法性の意識の可能性を責任要素と解する見解であり、違法性の意識の可能性が欠如した場合には、超法規的責任阻却事由があることとなります。そこで、実行行為時において、違法性の意識がないことについて、それを欠くことにつき相当な理由がある場合には犯罪不成立となります。

なお、原則として、私人(例え弁護士でも)の意見を信用したからといって、相当な理由が認められるわけではないものと考えられています。これに対して、信頼するに足る公的機関に照会し、違法でないという回答を得て行為した場合には、違法性の意識の可能性がないことにつき相当な理由があると認められると考えられます(東京高判昭和55年9月26日高刑集33巻5号359頁など)。

もっとも責任説は、違法性阻却事由該当事実の錯誤をどのように取り扱うかに関して、以下の二つに分かれています。

厳格責任説
厳格責任説は、違法性阻却事由該当事実の誤信について、これは故意を阻却するものではなく、違法性の錯誤として違法性の意識の可能性の問題と解する見解です。
制限責任説
制限責任説は、違法性阻却事由該当事実の誤信については、これは故意を阻却するものであって、違法性の意識の可能性の問題ではないという見解です。

これについては次の誤想防衛も参照して下さい。

(参照 w:違法性の意識

期待可能性[編集]

行為者が構成要件に該当する違法行為を行い、また他の責任阻却事由が存在しない場合であっても、その具体的な状況において、その犯罪行為に出ないことを行為者に期待できないような場合には、学説上一般に、期待可能性がないとして、超法規的に責任阻却がなされるものと考えられています。もっとも、これを積極的に肯定した最高裁判例はありません。

期待可能性の判断基準としては、以下の見解が主張されてきました。

行為者標準説
これは、その行為者を基準とする見解です。
平均人標準説
これは、通常人・平均人がその状況下にあった場合に期待可能性が認められるか否かを基準とする見解です。
国家標準説
これは、適法行為を期待する国家を基準とする見解です。

平均人標準説が多数の見解となっていますが、行為者の身体的能力などについては行為者を基準とせざるを得ないとの指摘もなされており、また行為者標準説に立った上で、法は平均人以上のものを要求するものではないとして、平均人を基準として上限を定める見解なども主張されています。

(参照 w:期待可能性